今日一つ学んだことがある。人生の先輩に言われたことだ。それは疑えということ。この言葉だけ聞くとあまりイメージはよくない。
仕事が終わった時だった。「本当に終わったか?何でも疑えよ」何気なく言われた言葉が引っかかった。そしてその言葉を考えた。
何でも疑ってかかるのは性格曲がってるんじゃないかと思っていた。
でもそういうことではなく、この言葉にはいろんな意味が含まれている。物事は何でも多面性がある。見方によっては見え方が変わってくる。
たとえば、ものすごく見た目がこわい人がいたら、そういう人には近寄りにくい。でも何かのきっかけで、話す事になったとしてだ。その人が笑いながら「こう見えて、酒ぜんぜん飲めないんですよ。」と言われたら、その見た目のギャップに壁がなくなることもある。
その逆もある。普段ニコニコしている人が話してみると、愚痴っぽいとか。そういう人には近寄りにくい壁が出来てしまう。
しかし、こういうギャップは誰にでもある。
人にはいくつもの人格があるからだ。ほんとの自分はこんなはずじゃないと思っていた時期もあった。今はこれも自分。あれも自分。一人のときの自分も、友達といるときの自分も、彼女といるときの自分も、家族といるときの自分も、仕事のときの自分も、全部自分なのだ。
一つの人格で生きる必要はない。演じてもいい。俳優はいろんな人物になりきる。野球の時のイチローはプロに徹する。それぞれの自分があっていいと思う。楽しいとき、怒ってるとき、気を使っている時、好きな自分のとき、嫌いな自分のとき。ぜ~んぶひっくるめて自分だ。
それともう一つ
人生の先輩が言っていた疑えの意味。
それは行動についてだ。何かあったときに、一方向から見ると、正しいように見えるが、本当にそれが正しいのか。たとえば、喧嘩している二人がいたとする。片方の言い分を聞くとなるほど、と思える。しかしもう一人の言い分を聞くと、それもなるほど、と思える。どちらにも正しいという思いがあるのだ。自分に置き換えると、その正しいという思いを一度疑うのだ。
それに準備万端、忘れ物はないと思ったときほど、何か忘れ物をしていることがある。調子がいいときほど、足元をすくわれることがある。その時は最後の確認として自分を疑うのだ。行動を辞めてしまったり、迷うためではない。決してネガティブではなく。これでいいのかという確認だ。
これは人生の先輩からの短い言葉の贈り物。
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